【千葉ロッテ】福浦和也は”ジェダイ”である。

千葉ロッテマリーンズ

今日、2019年9月23日の試合をもって一人の千葉ロッテマリーンズの偉大な戦士が引退を迎えることになる。その名は”福浦和也”。
全てのファンにとってこの日は特別なことになる。何故”特別なこと”になるのかを知るには、野球選手・福浦和也誕生の背景を知ることが必要だ。

「フクウラって誰だ?」70番目の戦士

福浦自身が目標のプロ野球界に入って来たとき、自分が今日のこの日を迎えることを想像しなかっただろう。いや、それを「ハングリー精神がない!」というなかれ、プロ野球は入る時点で”順番を決められる”世界。
その弱肉強食の世界においてはある意味で”優先順位というタグを付けられる”ということを意味する。
その1993年ドラフト会議において、この年全12球団で最も最後に指名されたプロ野球選手がこの福浦和也である。その唯一、7人目を指名したロッテでさえ支配下登録選手枠70名の最後という扱いで背番号70を割り当てた。野球に詳しくない方でさえも与えられた「70」という背番号からも、懸けられた期待が決して大きなものではなかったことが理解できるエピソードだ。

運命の歯車が動き出す”打者への転向”

プロ野球入団から26年後。福浦和也は”遠回りしたスーパースターの一人”としてプロ野球会を引退する。結果として福浦和也は【生まれるべくして生まれた千葉ロッテのスター】だったのだと、今となれは理解できるが、そのスターダムに押し上げられるキッカケとは”打者転向”にほかならない。
当時は投手で入団して来て、自分自身も「投手で一旗揚げたい!」と息巻いていいた19歳の少年は、当時は二軍打撃コーチをしていた山本功児に声をかけられ打者としての道を歩むことになるのだが、その時のエピソードがまた”福浦の人柄”を滲ませる。

二軍キャンプが終わり、浦和球場に戻った時、当時は二軍打撃コーチをしていた山本氏に声をかけられた。「打撃の才能がある。野手をしないか」。最初は冗談だと想い、愛想笑いでごまかした。だが、その後も目が合うたびに声を掛けられ、本気だと知った。「オレはピッチャーをやりたかったから、断り続けていたよ」。しかし、最後は熱意に押された。
※以下引用元記事URL

「絶対に打席に入る際に屈伸を2回する。それはもう絶対。あれはずっとやっている。やっぱり一定の流れで打席に入る事でリズムが生まれる。いつも同じ気持ちで落ち着いて打席に入れるようになった。1打席を大事にする心構えにもなっている。あの言葉は忘れない」(文集オンラインより)
※引用元記事URL

https://bunshun.jp/articles/-/13714

プロという”エゴや個性”の強さがひしめき合う中で、周囲のアドバイスに耳を傾け、チャレンジしてみる姿勢アドバイスされて以降も「頑なにそのアドバイスを大切にする姿勢」がきっと観るものを魅了して止まないのだろう。

福浦和也は”千葉に光を照らすジェダイ”

地元千葉県出身で、千葉県習志野市立習志野高校からマリーンズに入団して以降、1度も移籍を経験することなく野球人生を送ってきたフランチャイズプレーヤーである福浦和也。球団史上最多の2234試合に出場(9月22日時点)し、生え抜き選手としては球団3人目の通算2000安打も達成。2005年と2010年の日本一にも主力として大きく貢献。
これほどの成績を残し続けて来たにも関わらず、彼の姿勢は不変だ。
もう、職人ですね。福浦安打製造所というニックネームがつくのも理解。

活躍すればするほど、練習やトレーニングをしなければ不安だった。それまでと同じことをやっていてもダメ。常に、さらに上を目指していたし、前年以上の成績を残すためには練習せざるを得ない。それが普通だった

いわゆるプロ野球選手としての”派手さ”は少なかったのかもしれないが、この愚直に不器用ながら、自分のできることを必死で積み上げ、バットを持って相手と対峙して来た姿はスターウォーズでいう【ジェダイ】よろしく、観るもの全て特に自分を含むロッテファンには変えがたい稀代のマリン戦士だ。もしくは、アバターでいう”トルークマクト”か。

「福浦ありがとう!」千葉県が一つになる日

いよいよ後、数時間後ろに稀代の”俺たちの福浦和也”が引退試合を迎えます。現地には行けないけれど、その勇姿を海馬に刻み込みます。
福浦和也選手、本当にお疲れ様でした!最後一本、楽しみにしてます!